長良川を遊び倒す! ラフティング/キャニオニング/シャワークライミング

ムーンライトながら

ムーンライトながらは、東京駅 - 大垣駅間を東海道本線経由で運行する臨時夜行快速列車である。

「ながら」は、東海道本線西岐阜駅 - 穂積駅間(岐阜県)で渡る「長良川」にちなんでいる。そこに以前からJR各社が夜行快速列車名に採用している「ムーンライト」を冠したものである。それまで新宿駅 - 村上駅間に運行されていた夜行快速列車「ムーンライト」は、「ムーンライトえちご」に改称した。373系電車には長良川名物「鵜飼い」を図案化したヘッドマークが用意されていた。臨時列車化した現在は「快速」表示のみとなっている。

過去、1968年9月までは東京駅 - 大垣駅間を走る臨時準急列車に「ながら」という愛称名があった。また、1996年3月までは名古屋駅 - 大垣駅間では「ホームライナーながら」という列車も運転されていたが、現在は「ホームライナー大垣」に名称が変更されている。

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東海道本線夜行普通列車沿革

戦前

1889年(明治22年)7月に東海道本線新橋駅 - 神戸駅間 が開業した。この時下記の時刻で設定された1往復の夜行列車が東海道本線夜行列車の起源といえる。しかし、当時の列車は特に夜行を意識していたものではな く、列車の速度が遅いため、東海道本線全線を走ろうとすると、夜間帯にも走行しなければならないという理由で運転されていたと考えられる。

大正から昭和初期になると東海道本線には1日5 - 7往復の夜行普通列車が設定(東京駅 - 名古屋駅間または名古屋駅 - 大阪駅間が夜行になっていた)される。東京駅から大阪駅のほか、参宮線の鳥羽駅、山陽本線の姫路駅・岡山駅・下関駅までを結ぶ列車が現れ、設備の面では食堂車や寝台車を連結された列車も存在するなど、黄金期を迎えた。

1942年(昭和17年)11月に関門トンネルが開通し、下りでは東京駅 - 長崎駅・久留米駅間、上りに至っては鹿児島駅 - 東京駅間を直通運転する列車(34列車・当時1493.1km・所要41時間25分、時刻は下記)も設定された。東京と九州を結ぶ普通列車が他にも何本か設定されるなど、運行区間と本数においては最も充実した時代といえた。しかし、その後は太平洋戦争の戦況が悪化し、軍需用貨物列車増発のため旅客列車が削減されていくようになり、1944年(昭和19)4月には寝台車の連結も廃止される(食堂車の消滅時期は不明)。

終戦時、東海道本線には下り6本、上り7本の夜行列車が設定されていた。但し、特急・急行列車削減の代替という側面(この当時、特急列車は全廃、急行列車は他の線区含めて、東京駅 - 下関駅間の1往復のみとなっていた。)もある。また、設定はされていても、実際は空襲による路線・車両の被害などで運転されなかった列車も多いという。

戦後

戦後は終戦時以上に受難の時代を迎える。特に1945年(昭和20年)秋 - 1948年(昭和23年)は車両や設備の荒廃、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) による車両の接取(連合軍専用列車も参照)、労働者不足などが原因の燃料の石炭不足などで列車が削減され、時刻表に掲載された通りに列車を運転できない事態も多く発生した。

特に1947年(昭和22年)初頭には冬の石炭不足で列車が大幅に削減され、急行列車が全廃されてすべて普通列車になり、東海道本線の夜行列車は東京駅 - 門司駅間の1往復、東京駅 - 沼津駅間の下り臨時列車1本(夜行といえるか否かは微妙な時刻)、そして上りの名古屋駅 - 東京駅間1本のみとなった。

1947年(昭和22年)6月には、復員・引揚列車を兼ねた列車(列車番号8000 番台。普段は一般旅客列車として運転するが、復員・引揚客のある時は一般旅客の乗車制限を行う列車。)が登場する。この列車の混雑は激しく、座るためには 列車の発車の相当前から始発駅で並ぶ必要があった。しかし、切符が販売制限されていたということもあり、座れるかどうかより列車に乗れるかどうかの方が問 題だったといわれている。

世情が落ち着くのに応じて輸送力も回復していくが、戦後は急行・準急列車の増発が中心となり、長距離普通列車はそれほど増発されなくなった。その中で1956年(昭和31年)11月には東海道本線の全線電化が完成し、この時のダイヤ改正で夜行普通列車は下り4本・上り3本(東京駅 - 門司駅・大阪駅間)に増発、戦後の最盛期を迎える。

しかし、これ以降は特急・急行列車の増発のため、徐々に削減されていく。1961年(昭和36年)10月には大規模なダイヤ改正(通称「サンロクトオ」)により特急・急行が増発される傍らで、2往復(東京駅 - 姫路駅・大阪駅間)に削減される。

1967年(昭和42年)10月には、東京駅 - 大阪駅間の1往復(下りは東京駅 - 名古屋駅間、上りは大阪駅 - 名古屋駅間が夜行運転)と豊橋駅 - 東京駅間の上り列車1本のみとなる。しかし、東海道新幹線が開業した後であっても利用客は多く、特に繁忙期には数時間並ばなければ座れないことも多かったといわれる。また、その頃までは生活困窮者向けの半額乗車券(通称マル救切符)を持った利用客も多かった。

大垣夜行時代

前述の夜行普通列車は、東海道本線の普通列車で唯一の客車列車となっていたことから、合理化のため1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正(「ヨンサントオ」)において廃止することが決定していた。しかし、そのことが新聞などで発表されると廃止反対の要望書が国鉄本社などに多く寄せられ、当時の国鉄総裁・石田礼助が「この夜行列車を存続させるべきである」と判断したこと、またこの列車には荷物・郵便輸送の役割もあった事情などから、急行形電車を使用して存続することになった。因みに当時はまだ東名高速道路も部分的にしか開通しておらず、東京と名古屋・京阪神を結ぶ高速バスもまだなかったこともあって、普通列車で格安移動する旅客もまだまだ多かった。

電車化に際し、運転区間が大垣駅までに短縮され、一般に大垣夜行と呼ばれることとなる。実際には下り列車のみ、大垣から分岐する東海道線支線の美濃赤坂駅行だったが、枝線の終着駅行きでは一般利用者に行き先がわかりにくく、1969年(昭和44年)10月1日、大垣止まりに変更となった。

大垣駅発着となったのは、ここに車両基地の大垣電車区(現在の大垣車両区)があり、運用上好都合なためである。なお、上りは前述の豊橋駅 - 東京駅間の列車を大垣発に延長した形になった。この列車の人気は高く、特に青春18きっぷの 販売が開始されると、その利用可能期間となる夏・冬・春の繁忙期にはラッシュ時の通勤列車並みもしくはそれ以上に混雑する列車となった。特に通勤・退勤時 間帯と重なる下りの東京駅 - 小田原駅間と岡崎駅 - 名古屋駅間での、青春18きっぷ有効期間中の混雑は甚だしかった。

特に下りは「大垣行き(夜行)電車」なので「垣電」と呼ぶ利用者も少なからずいた。電車化後しばらくの間は客車時代の番号を踏襲した143Mと 144Mを名乗ったが、後に東京駅 - 名古屋駅間運行の普通列車と同じ体系 (3xxM) に変更されている。下りの場合でみると、白紙ダイヤ改正ごとに347M→345M→375Mと変化している。かつては、上り列車に限り清水駅(深夜1:10過ぎ)と浜松駅 - 静岡駅の各駅に停車していた時期もあった。

青春18きっぷの販売が開始される前はグリーン車から席が埋まっていたが、青春18きっぷの販売が開始されてからは普通車から席が埋まるようにな り、特に下りの始発駅である東京駅では数時間前から行列が出来ていた。青春18きっぷが発売されない時期は、週末などを中心に東京ミニ周遊券や京阪神ミニ周遊券などの利用客が、格安料金でゆったり過ごせるとしてグリーン車を利用することも多かった。バブルによる首都圏の地価高騰の影響で、東京への通勤圏が静岡県東部まで広がった1980年代後半以降は、新幹線の最終を逃した新幹線通勤者の最終列車としての役割も果たすようになった。

深夜の静岡駅では1990年代初頭まで駅弁の立ち売りがあり、長めにとっていた停車時間を利用して駅弁を購入することができた。末期は小ぶりの幕の内弁当1種類のみの販売であったが、それでも売れ残りではなくこの列車のために調製されたものであった。小説では西村京太郎『大垣行345Mの殺意』とつかこうへい『青春かけおち編』に大垣夜行が登場している。なお車両は1982年から翌年にかけ153系から165系に交代している。

1986年(昭和61年)11月1日に国鉄最後のダイヤ改正が実施され、荷物列車がほぼ全廃となったことから、上り列車に関してスピードアップが行われる。これにより、名古屋駅の発車時刻が新幹線の東京駅行最終「ひかり」の発車した約1時間後となり、列車の需要拡大につながった。この時荷電の連結が無くなり、編成が普通車9両・グリーン車2両の11両に減車された。

1987年(昭和62年)3月末には、4月1日の分割・民営化を前に殺到した謝恩フリーきっぷの乗客に対応するため、田町電車区(現在の田町車両センター)の167系8両による臨時列車が突発で設定された。これが「臨時大垣夜行」(→「ムーンライトながら91・92号」)の起源といわれている(諸説あり、詳細は不明)。この列車はその後も多客期に品川駅(または、東京駅) - 名古屋駅間に設定され、1989年12月からは時刻表にも掲載されるようになり、平成の初め頃までは朝の通勤時対策として豊橋駅 - 名古屋駅間のみを運転される日もあった。なお、設定当時の「臨時大垣夜行」は近郊形の113系による運行であった。同電車を使用した列車のうち、JR東日本の車両で運行したものは自社管理区間で使用する車両を充当したことからグリーン車も連結されていた。なお、1990年(平成2年)8月の旧盆の6日間だけは定期の列車が米原駅まで延長運転された。

1994年(平成6年)になると、臨時大垣夜行も波動用の急行形車両を使用するようになる。当時の東京駅は東北新幹線ホーム増設工事のため東海道本線ホームが狭い仮ホームとなっており、混雑期に行列が危険な状態となってしまうため、定期・臨時ともに下り列車は品川駅始発で運転された。

ムーンライトながら

1996年3月に、前述のような混雑の解消、通勤客など短距離利用者と長距離利用者との分離、そして長距離利用者の着席確保を狙い、特急形車両である373系を使用した指定席列車となり、「ムーンライトながら」と命名された。この時に長らく連結されていたグリーン車は廃止となった。また、車両が急行形11両から特急形9両となり座席数が減少するため、お盆や年末年始など特に混雑が激しい時期のみ運行される場合が多かった臨時列車(下 りは品川→大垣間、上りは大垣→東京間)を、青春18きっぷが使用できる時期は学校の長期休暇期間を中心に多くの日に運転、名古屋発着であった運転区間も 大垣まで延長するようになった。なお、下りは臨時列車が定期列車より品川駅を僅かに遅く発車するものの大垣駅到着は臨時列車が僅かに早く、上りは臨時列車 が定期列車より大垣駅を20分から30分程早く発車するものの東京駅到着は定期列車より僅かに遅いといったダイヤであった。

2001年(平成13年)春より大阪市此花区にオープンした大規模レジャー施設「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」 への利便性を図って下り臨時列車の大垣到着が1時間繰り上げられると同時に豊橋駅→名古屋駅間がノンストップ運転となり、大垣駅から西を目指す利用者には 大変便利となった。同年夏にはJR東海所有の165系が事実上全廃されたのに伴い、一部の臨時大垣夜行が近郊形のJR東海113系10両編成で運行され た。しかし、セミクロスシートで座席数が少ないことや、片側3扉で半自動扉が設置されていないことから、乗客には大変不評だったといわれている。この後は 原則としてJR東海の車両は使用せず、すべてJR東日本の波動輸送(臨時列車)用急行形電車を使用するようになった。ただし、この頃までは最混雑時には続行で突発の臨時便が運行されたこともあり、これには急行形以外に115系や113系など近郊形電車も使用されていた。

2003年に は、それまで使用していた田町電車区の167系が全廃されたため、2年ぶりに113系が運用に復帰、JR東日本は新前橋電車区の165系を使用し、1日お きに担当した。全車自由席の無愛称列車としてはこれが165系最後の運転となった。7月には、臨時大垣夜行は従来の車両持ち合いから、JR東日本所有の波 動輸送用特急形車両である183・189系を利用する指定席列車となり、「ムーンライトながら」の臨時増発列車として91・92号となった。これは、定期 列車がJR東海からJR東日本への片乗り入れの体制を取っていたことや、JR東日本の急行形車両も老朽化により廃車されたことによる。

2007年3月18日のダイヤ改正で、前述のとおり「ムーンライトながら」の運行形態が変更され、運行時間の変更、全席禁煙化の他、停車駅も削減された。

2009年3月14日のダイヤ改正では、運行は混雑時期である年間約120日のみの臨時列車となることが、JR東日本およびJR東海からそれぞれ発表された。この臨時列車化により、さらに停車駅も減少し、使用される車両も91号・92号で使用されてきた183・189系のみとなった。

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